上寺山 餘慶寺について

うえてらさん けいについて

愛山護法 善行を積み重ねたお寺 上寺に解き放たれる陽光 手をあわせ心づくお寺 そこに餘慶あり

上寺山 餘慶寺は、愛山護法の思いを持って、善い行いを積み重ねてきた歴史あるお寺。
愛山とは、お山を大切にしますという意味が込められており、
ここでいう山はお寺の山号さんごうのことで、餘慶寺では「上寺山」となる。
護法とは、私たちの人生の大切な道しるべである
仏教の教えを大切にしますという意味である。

また、餘慶寺は標高60メートルほどの小高い山の上にあるので「上寺山」と呼ばれるようになり、
いつしか山の名前がそのまま山号となった。
地元では上寺(うえてら)の愛称で親しまれている。
このような山の上という高い場所で太陽の光を存分に浴びることができる。
「解き放たれる陽光」は悩める心や、縛られた考え、
排他的な思いなどを太陽の光により勢いよく一掃させる思いを込めている。
上寺山 餘慶寺に詣ることで、溢れる慶びに、心づく(気づく)ことができる。

歴史

1270余年の歴史

上寺山餘慶寺は報恩大師ほうおんだいしの開基として伝えられている備前四十八カ寺のひとつで、749(天平勝宝元)年の開山当初は「日待山日輪寺にったいさんにちりんじ」と称されていた。9世紀に天台宗中興の祖てんだいしゅうちゅうこうのそ慈覚大師円仁じかくだいしえんにんの命により「本覚寺」と寺号を改め、ご本尊に千手観世音菩薩を奉祀ほうしし、七堂伽藍しちどうがらんが整えられるなど繁栄を極めた。しかし戦乱期の12世紀末には、源平の争乱により近隣にあった今木城いまぎじょうとともに支院や三重塔を焼失したという。その後、時代の進展とともに徐々に寺院の復興は進み、寺号を現在の「上寺山餘慶寺」と改めたが、寺号を改めた時期を特定できる史料はいまだ発見されておらず、応仁・文明の乱(1467〜1486年)ごろではないかと推測されている。江戸時代には岡山藩主池田氏の庇護ひごのもとで栄え、最盛期には7院13坊を数えたという。現在でも6院が残っており、建ち並ぶ諸堂と合わせ県内屈指の大伽藍だいがらんといえる。

1270余年の歴史

山の上で陽光を感じていた

天平勝宝元年てんぴょうしょうほうがんねん(749年)の開基当初、餘慶寺は日待山日輪寺と名付けられた。この山号寺号は「東嶺の日の出を敬拝するに便り有り」という言葉に由来するものである。たしかに上寺山周辺は今も広大な平野が広がり、東側には高い建物や山もなく、今も昔も日を拝むには最適な環境だ。

山の上で陽光を感じていた

悩む心を祈る心に変えよ

餘慶寺には次のような霊験談れいけんだんが伝えられている。
享保16年のこと、藩主池田公が江戸詰めの時に、重病になって明日の命もわからなくなった。その時夢枕に千手観音が立ち、「自分は備前の東向き千手観音」と名乗り、「悩む心を祈る心に変えよ」と告げた。夢から覚めた池田公は、東向きの観音こそ餘慶寺本堂の千手観音と知り、願を掛けると忽ち病気は回復した。
この霊験で助かったお礼に、扁額へんがくや千手観音の仏画などを餘慶寺に奉納したという。
この霊験談は語り継がれて、檀家や信徒の信仰心がますます高まった。

悩む心を祈る心に変えよ

一山一寺多院制いっさんいちじたいんせいの貴重なお寺

本乗院文書ほんじょういんもんじょ(餘慶寺の記録)によると餘慶寺は寛文5年(1665年)には7院7坊で末寺が3ヶ寺を抱えており、その後の変遷としては正徳4年(1714年)には7院2坊となり、明治8年(1875年)には6院となり、現在に至る。

一山一寺多院制の貴重なお寺

六院の紹介

  • 恵亮院 恵亮院えりょういん
  • 本乗院 本乗院ほんじょういん
  • 吉祥院 吉祥院きちじょういん
  • 定光院 定光院じょうこういん
  • 明王院 明王院みょうおういん
  • 圓乗院 圓乗院えんじょういん

廃仏毀釈はいぶつきしゃくにあわず神仏習合であり続けた

政府が明治維新のもと神仏分離しんぶつぶんりを言い渡す約200年前に、上寺山では備前岡山藩初代藩主池田光政公による寺院整理が行われ、この時にすでに餘慶寺と豊原北島神社とをはっきり区別していた。そのため、政府による強引な廃仏毀釈の影響を大きく受けず、7院2坊から6院を残す運びとなり、現在に至っている。

廃仏毀釈せず神仏習合であり続けた

境内

寺伝によると、餘慶寺は近隣に多くの末寺を有するお寺であった。特に薬師堂は山の下にあり下寺したでらと呼ばれていたが、戦乱の時代に戦火を避けるため、お堂を山の上に移した。
現在の境内は山上のみになり、下寺との対比で上寺と呼ばれていたところが、いつの頃からか通称が正式な山号になった。 山上の本堂、三重塔、鐘楼といった建物のほとんどが国・県・市の重要文化財に指定されていて、県下屈指の大伽藍だいがらんとなっている。 餘慶寺の伽藍は長い歴史の中、多くの檀家や信徒に支えられ現在の姿を保っている。
「餘慶」は「積善せきぜんの家には必ず餘慶あり」という「易経えききょう」の文句に由来するが、現在の伽藍こそ積善の功徳の象徴である。

  • 本堂 本堂
  • 薬師堂 薬師堂
  • 三重塔 三重塔
  • 鐘楼 鐘楼

ご挨拶

餘慶寺は天平勝宝元てんぴょうしょうほうがん(749)年、報恩大師によって開山された1250年以上の歴史があるお寺です。
境内には本堂(観音堂)、薬師堂、三重塔、地蔵堂、阿弥陀堂、八角堂はっかくどう十三仏堂じゅうさんぶつどう鐘楼しょうろうなどが伽藍がらんを連ね、恵亮院、本乗院、吉祥院、定光院、明王院、圓乗院の支院が現存しています。
餘慶の語源は「積善の家、必ず餘慶あり、不積善ふせきぜんの家、必ず餘殃よおうあり」という「易経えききょう」の文句に由来します。お参りされた方、皆様に善きことを積んでいただき、餘慶を得て日々の活力としていただけるお寺であり続けたいと思います。境内のみならず参道にも咲く四季折々の草花を眺めながら積善を得にお参りください。

〒701-4232 瀬戸内市邑久町北島1187
TEL:086-942-0186
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